終戦記念日

沖縄にて。

今年は、第二次世界大戦の戦後60年になります。
管理人の祖父母も10代のころに戦争を体験している数少ない戦争体験者です。
さて、その話でも書かせていただきます。
管理人が小さいころから聞かされていますので。( ̄^ ̄ゞケイレイ
ついでにそのせいか管理人は戦争がキライです。
まぁ、人と争うことが苦手な一人っ子でもあるんですけどね。
その記憶となるように書き残しておきます。|∀ ̄)


父方の祖母は疎開先の岐阜で生まれました。もちろん、生まれた当時は戦争が始まる直前でしたが、
戦争が始まってからは祖母の実家は疎開先として色々な地方の人が来たそうです。
そんな終戦間近、祖母は名古屋の空襲と岐阜の空襲を目撃しました。
赤く染まる夜空というのを見たそうです。
その後、訳もわからず、「今すぐに防空壕に逃げろ!」という近所の人の知らせで
丸2日間も防空壕で過ごし、後に知ったのは空襲があったことでした。
祖母はあまり語ることはありませんが、唯一、聞いたことがある話でした。
「若くて覚えがないんだよ。」と祖母は言いますが、
戦争時は10歳ぐらいなので覚えがないのではなく、
語るよりも自ら学んできなさいということでしょう。
まぁ、沖縄などでその悲惨さは写真から映像から学んできました。


続いては父方の祖父です。
祖父は学童奉仕で岐阜にある中央西線多治見駅で機関車の入れ替え作業をしていました。
多治見から先は急勾配で当時の鉄道技術では、
機関車1両では乗り越えることは出来ませんでした。
そこで機関車を2両でパワーアップさせて木曽の山の中を超えていきました。
貨物・旅客のメインとなる中央線は山の中を通るので、
敵の攻撃からもあまり受けませんでしたからね。
今では普通の電車が一気に登っていきますが・・・
その基点となる駅で祖父は働いていました。
そんな終戦間近のある日、入れ替え作業をしていた祖父の頭上にキラリと光る物体が。
「敵襲〜!」の叫び声と同時に祖父は横にあった貨車のすき間に身を隠すと
爆音と共にアメリカの戦闘機が襲ってきたそうです。
奇跡的に祖父は身を隠していたおかげで助かりましたが、
この攻撃で友人をなくしたそうです・・・
ちなみに祖父が隠れた貨車には爆撃され、
あと数cmで祖父に弾丸が当たったかもしれませんでした。
また、幼なじみや近所の知り合いなどたくさんの人が亡くなったそうです。
原爆でも友人が偶然にも広島へ行ったときに原爆の被害にあい、遺骨すらないそうです。
「もし、友人や大切な人をなくしたくなければ、戦争は二度としてはいけない。
戦争をすれば、悲しむのは自分でも政府でもなく、大切にしてくれたり、
大切に思っている人だよ。それに人間は兵器じゃないよ。」


母方の祖母は早く亡くなっているのでよく知りません。
管理人が6歳の時に亡くなっているので・・・
祖父は健在ですけどね。祖父は勇猛果敢なのか満州へ渡っていました。
中国の北部に日本が作った国ですね。
祖父は頭が良かったので学校に行っていたそうですが、
「日本が負けそうだ・・・」という話を聞いた祖父の父はすぐに日本へ帰国。
その4日後にロシアが襲ってきたそうです。
まぁ、母方の祖父も多くは語らない人なので・・・


こう思うと戦争を体験してきて生き抜いている人は本当に極わずかになってきましたね。
また、管理人は沖縄に行った際、資料館などを見てきましたが、
戦争が正しいとは思えません。いつも犠牲になるのは若い命か弱い人々のみ。
そして、生み出すのは憎しみと悲しみだけですから。
そうは言っても世界中では今でも戦争とテロがどこかで行われています。
そこでも犠牲になるのは若い命か弱い立場の人が多いですね。
キレイ事ばかりで具体的な対策が全く出ませんが・・・(汗)
とりあえず、立てられる政策は教育と貧困の根絶ではないでしょうか?
貧困は人々の心をなくしてしまいますからね。日本やドイツが戦争を始めたのは
石油や食糧・第一次世界大戦の賠償金などからでしたしね。
教育は人々に色々なことを教えてくれます。
先人の知恵・経験・生きる道を若い人々に教えてくれます。
まぁ、地味なイメージを持ちやすい教育ですが、
かなり重要なポジションですよ。(*´・ω・)(・ω・`*)ネー
日本の先生に期待しています。


今は夏休みです。ヒマがある人は、戦跡を見てみていかがでしょう?
管理人は去年の学生最後の夏休みに沖縄の戦跡へ行きましたが、あのキレイな風景と
優しい明るい人々が生活している沖縄の対極にある暗い闇の部分を見ましたよ。
そして、色々と考えさせられましたよ。
行ったのはひめゆりの塔平和記念公園・旧海軍司令部壕でした。
今一度、戦争について考えて、唯一の原子爆弾被爆国として
平和について考えてみるべきでしょうね。




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